奈良・平城宮跡の東の端から、東の山中を見てます。東大寺や若草山がよく見えますね。1300年の昔の奈良平城京が蘇えります。


by nbsan1491
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奈良・大和 の 古 道 ( 下 ッ 道 )

道は人間の最もすばらしい創造の一つであろう。道の交差するところは町となり、谷口には市がたった。そんな古代の代表する奈良。大和の古道をたどってみよう。

今回の道は六世紀後半から七世紀にかけて盆地南部(明日香・藤原)から北に向かってつくられた「上ッ道」「中ッ道」「下ッ道」の三本の直線計画道が徐所に整備される。三本の道の東西の間隔は「一町」が106mの古い尺度で令制四里二十倍=2120mの等間隔で施工された計画道路で有った事が判明されている。
中でも下ッ道は条里の基準線、平城京の中核線となった幹線道路で、条理に先だって作られたため、道幅分を除外して里界線がひかれた。道幅43mと推定され、現在の大阪「御堂筋」に等しい。

しかし長岡京・平安京への遷都以降、下ッ道の北半分は次第に使用されなくなった。大和郡山市裨田の西側の環濠が下ッ道を切っており、側溝のある26mの道路跡や橋脚が発掘で検出されている。

下ッ道が京域と交差するところに羅城門がおかれ、そこから幅75mの広大な朱雀大路が平城宮朱雀門まで4km建設された。
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南都から京への道は下ッ道を延長した歌姫越が当初は中心であったが、中世以降南都奈良町の発達で奈良坂経由の道が重要になる。一方大阪へは難路だが距離が短い「暗峠」経由の道がよく利用された。

下ッ道の南部は「中街道」と呼ばれるようになり、郡山城下と八木をつなぐ主要道として機能した。
上ッ道は近世には「上街道」と呼ばれ一部は西側に移動するが盆地の南北の幹線道となり、京都から奈良、長谷寺、室生、伊勢へ向かう参拝・観光の道となった。

今回「県立橿原考古学研究所」の主催で「国道下ッ道の遺構」の「アトリウム展示」(下ッ道と平城京朱雀大路)開催されます。

(*)県立橿原考古学研究所で開催。 
   奈良県橿原市畝傍町 
   問い合わせ 0744-24-1101
   2011年3月23日まで 「無料」

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Commented by まえだ at 2011-01-20 13:28 x
先だっては、ええもん送っていただきましたありがとうございました。
毎日トイレで足が痺れるまで貪り読んでます。(笑)
この下つ道、だいぶん前にUGの兄♭♭♭さん主催で走ったことがあります。1月6日あたりやったと思いますが、道路も凍るような寒さと冷たい風の中、斑鳩から今井町を往復しました。はづきの御大も来られてましたね。
また走ってみたい道の一つです。
Commented by N B san at 2011-01-20 16:50 x
まえだサン、「ええもん」気に入って貰えたようですね、再度気に入って貰えそうなものが手元に有りますのでお楽しみに。
今は寒いですからもう少し暖かくなりましたら、橿原方面へ出かけたいと思っています、宜しくです。
by nbsan1491 | 2011-01-20 10:07 | Comments(2)